相馬オーナープロフィール 相馬鎮徹(そうま しげあき) 43才男性 ・役職 オーナー(シェフ) ・血液型 B型 ・出身 帯広市 |
相馬オーナーは1968年6月、帯広で食堂と下宿・緑風苑を経営するご両親の家に生まれた。ご両親の仕事は忙しく、小さな頃あまりかまってもらえなかったそうだ。朝ごはんは調理場で忙しく走り回っている両親の足元で小さなちゃぶ台で食べるのが日課だった。幼稚園の頃になるとご両親が忙しいので自分でソーセージを焼いたり目玉焼きを作ったりして朝ごはんを作って食べていた。これだけでも凄いのだが、相馬オーナーはこれに留まらない。ある日、下宿の夕飯の仕度の時間になっても外出先からご両親が帰ってこなかったのだ。その日のメニューはカレーライスで、食堂や下宿人の方々に大人気。緑風苑のカレーライスといえば当時有名だったのだ。夕飯の仕度が全く済んでいないのに下宿人がどんどん帰宅する。子供ながらにまずいと思った相馬オーナーは、なんとカレーを作り始めた。小さな頃から調理場で育ったので親のやっていた仕事を思い出しながら作ったそうだ。カレーライスが完成して、下宿人が次々と降りてきて食べ始めた。 「今日のカレーは美味しい?」 すると、みんな口を揃えてこう言ったのだった。 「いつもと変わらず美味しいよ。でも、なんで?」 「いや、何でもない・・・」 子供ながらにとっても嬉しかったのは当然だろう。これが相馬オーナーが4~5才の頃、生まれて初めて作ったカレー。その後、ご両親が帰ってきて目を丸くしてビックリしているのを今でも覚えているというが、その驚きの顔は想像に難くない。 順調なカレー人生のスタートに見えたが、その後の人生は苦労の連続。それが今の相馬オーナーの糧となっている。 小学校時代は、家庭内がうまくいってなく、母親がいない時期があり寂しい思いをした。参観日や運動会の練習では自然に涙がこぼれたのを覚えている。小学校3年生の時に車にまともに跳ねられた経験がある。その時は奇跡的に3日の入院で済んだのだが、たぶん、大人になってからなった病気の直接的な原因になっているだろうと語る。しかし、それらの経験があるからこそ、同じような境遇にいる人の気持ちになれる、今の自分になれた。我ながら良い親を選んで生まれたとつくづく思う。両親もまた様々な波乱万丈な人生を経験し、現在は幸せな人生を歩んでいる。今ではご両親は相馬オーナーも一目おく程の人格者なのだと言う。 中学の頃、「自分はおちこぼれでした。」とこともなげに語る相馬オーナー。勉強もせず、喧嘩ばかりしていて、不良ではなかったけれど喧嘩に強い事がカッコイイと思っていたそうだ。自分より大きな相手に喧嘩をふっかけたり、肋骨を折るなどしょっちゅうしていた。部活は陸上部に在籍していたがほとんど練習に行かなかった。友達が迎えに来てくれても行く気になれなかった。こんな相馬オーナーに、いつも優しくしてくれる一人の女の子がいた。彼女は優等生で、いつもノートを見せてくれたり世話を焼いてくれた。これが初恋だったのだけれど、中学卒業と同時に彼女は帯広一の進学校へ行き、同じ高校へ行きたかった相馬オーナーは残念ながら行けなかった。 その時「こんな自分でいいのか。こんなんじや好きな人と一緒にいる事さえ叶わない。そうだ!もっと立派な人間になってまたいつの日か彼女に自分を見てほしい!」と思った。そう決心して、北高へ進学し、ある目標を立てた。それは「陸上競技で100Mを10秒台で走る」という事。そして、練習に打ち込んだ。当時北高陸上部の練習は十勝一辛く厳しい練習だったそうだ。それでも目標がしっかりしている人間は強い。ある時十勝の高校生が一堂に会する合同合宿があり、それぞれ目標を言わされた。当時は誰も口にする事がない大きな壁である10秒台をめざす!と発言した。すると一斉にみんなにどっと笑われた。冗談と思えるほどの、かなり上の目標。目標は高い方がいいといわれるが・・・お前が出来る訳ないだろ。昔を知っている人には無理もなかったかもしれないが、絶対成し遂げると心に誓っていたのだそうだ。強く高い志を感じるエピソードだ。努力の結果、十勝では負けることのないトップアスリートとなる事ができた。中学時代の陸上部の先生も全く信じられない様子だった。そして、全道大会でも決勝に残るまでになった。記録こそ11秒前半でしたが、と相馬オーナーは笑うが、もの凄い記録だと思う。高校最後の大会は100M、200M、400Mリレーの3冠とトラック優勝を成し遂げた。 高校卒業後、札幌にある大学に行き、そこで念願を達成することができた。100Mを10秒8で走る事ができたのだ。時期が少しずれたとはいえ、強い精神力で目標達成は、素晴らしい以外の言葉が見つからない。 中学のクラスメイトの女の子と陸上競技のお蔭で、自分が強く思い努力すれば成し遂げられないものはないんだという信念を持つ事ができた。「これが自分という人間の基礎になったんです。」と静かだけどとても力強い気合いを感じた。 大学時代、経営学を専攻していた。その時、同じ大学に通っていた、今の奥さんと知り合っている。 大学卒業後、相馬オーナーは地元のぜんりんレジャーランド株式会社(グリュック王国)に就職。奥さんは六花亭に就職し札幌の勤務となり、遠距離交際が始まった。1989年4月からグリュック王国にオープニングスタッフとして働き始めた。グリュック王国の実際のオープンは7月だった。テーマーパークという夢のような仕事で期待に胸膨らませていたが、とんでもない会社に入ってしまったと振り返る。オープンまで残り3か月だった事もあったが、正直、やっていけるのか不安なくらいの忙しさと過酷さだったのだ。入社して早々毎日夜中帰りだった。残業代は出ないけど残業は当たり前、本来権利である週一の休みさえも休んだら上から嫌な顔をされたものだった。中での準備以外に、オープン前は前売り券の営業にも走り回っていた。 オープン一か月前、ドイツから招いていた石畳職人の送迎とランチの配達をしていた。ランチはいつも幕の内弁当だった。しかし、ドイツ人の職人さんは、日本のお弁当が口に合うはずもなく、しかも毎日同じもの。仕事を終えて帰ってきた職人さん達はまたこれか!と机を蹴飛ばし、ほとんど食べてくれなかった。見かねた相馬オーナーは、上司にメニューを考えてくれるようにお願いをしに行った。しかし、上司は「こっちはお金払って雇ってやってるんだから贅沢言うなと言っとけ」と取り合ってくれなかったのだ。そこで、せめてものつもりで、食事をするプレハブ小屋を綺麗に掃除し、机の上を綺麗に磨いて、お花を飾り、お弁当とお箸、お茶を並べてみた。夕方お弁当の残りを片付けに戻ってくると、なんとお弁当を残すことなく、すべて綺麗に食べられているではないか。職人さん達が仕事から帰ってきて相馬オーナーの所に集まってきてこう言った。「お弁当美味しかったよ。ありがとう、ゾーマンさん。君は俺たちのマイベストフレンドだ。」そう言って肩を組んでくれました。嬉しくて涙が止まらなくなった。「これが私のサービス業の原点なのです。サービスは形式ではありません。サービスとは今自分が出来る、出来る限りのおもてなしをする事なのです。」今ではホスピタリティという言葉で当たり前に近いようなことも、当時はほとんど言われてなかった時代。御自分で気付き、実践した強みがある。更に相馬オーナーは「人に対する思いやりを形にする事。それが、後にはじまるサービスマネージャーとしての仕事の信念となりました。」と、サービスの原点をその時見いだしたと話してくれた。(註:ドイツ語で相馬はSOMAと書き、そのまま読むとゾーマとなる。) グリュック王国はオープンする前日まで遊具や建物などの施設は完成せず、泊まり込んでその日を迎えた。当初、相馬オーナーは遊具の担当責任者として配属になった。自らもジェットコースターなどの運行もしていた。 まもなく多忙な直営のワインレストラン「ハーナウ」の担当を言い渡される。ハーナウは料理オリンピックなどで数々の受賞をし、京王プラザホテルの料理長もつとめたシェフのハルムートカイテル氏(「ドイツ料理KEITEL」のサイト参照)がプロデュースする本格的ドイツ料理とワインの店だった。スイス人の料理長とその奥さん(日本人)がホール責任者として働いていた。そこで、相馬オーナーはサラリーマンとしての自分とレストランサービス業としての自分という二つの側面を持つ事になった。レストランという場所においては、経験の浅い者にとってはシェフ夫妻はいわば上司のような存在だ。本来の上司はサラリーマンとしての会社の上司。そこで会社とシェフ夫妻、2種類の上司の間で板挟みにあって苦労した。会社から命令がおりてくるが、それを伝えてもシェフが聞くはずもない。会社からの言葉というよりは、部下からの言葉と認識したのだろうか。そして、事件は起こった。レストランの運営方針について二人の上司(シェフと直属の上司)から違う命令を受けたのだ。私は悩んだ結果、シェフではなく直属の上司の命令に従った。それはシェフの怒りを買うこととなり、シェフは相馬オーナーを殴って会社を辞めてしまった。悪いことは重なるもので、会社からおまえのせいでシェフが居なくなってしまったと言われもした。 以降、しばらくは元々いた日本人の料理人が料理を作り、相馬オーナーがホールマネージャーとしてレストランを運営してゆく事になった。独学でレストランサービスを勉強し、実戦で技術を磨いていった。小さな高級レストランでありながら、一日1000人以上のお客さんが来ていた。その頃は料理人という特異な人種との関係に苦労した。何度喧嘩したことか、何度涙を流したかわからないくらいだった。後にドイツ人マイスター(料理人)を招くようになり、最終的に計5人の異国の料理人と仕事をする機会に恵まれた。料理人の作る色々な料理やその技術をサービスとして学ぶことができた。その頃には自分のサービスとしての知識も技術も磨きがかかり自信もついた。ゼネラルマネージャーのハルムートカイテル氏には非常に可愛がってもらい色々な事を学んだ。そして、多くのウェイターやウェイトレスを指導してきた。レストランハーナウはテーマパークのレストランでありながらリピーターが多くとても人気のあるレストランだった。やはりそれはサービスの賜物だろう。 ある日、会社から突然の通達があった。直営レストランハーナウを閉めるというだ。ハーナウはグリュック王国の目玉の一つである事を説明し存続を熱心に訴えたが、決定は変わることはなかった。もうその頃グリュック王国の資金繰りは厳しい状態だったようだ。相馬オーナーはお土産品などの物販を担当したり、渉外に配属になったりした。その後、古城ホテル「ビュッケブルグ城」ができて、中札内村にフェーリエンドルフ(休暇村)もオープンした。ちょうどその時にフェーリエンドルフに配属になったのだ。そこでは別荘のハウスキーピングからレストランの運営まで幅広い仕事をした。そこのレストランは素朴さがウリだったので施設内に自生する山菜やきのこ、野イチゴや木の実などを採ってきて食材とした。自然いっぱいの環境で仕事をし、相馬オーナーも調理をしていた。 この時期に、遠距離交際を続けていた現在の奥さんと結婚した。忙しく、仕事に没頭せざるを得ない中で6年間の遠恋は、まさに強い意志があるからこそ、実るものだろう。奥さんはその頃まで札幌の六花亭で店長をしていたが、結婚と同時に帯広本店に配属になって、一緒の生活が始まったのだった。(後に奥さんは六花亭で最優秀社員賞を受賞したそうで、御夫婦揃ってサービス業で素晴らしい仕事を成し遂げているのだ。) その後、会社から辞令が来た。「シュロスホテルのレストランに行ってくれ」と。当時、ホテルはその高級志向とは裏腹に経験の浅いスタッフしかいなかったため、もうめちゃくちゃな状態で最悪のサービスと評判だった。今一度レストランのサービスを立て直すよう白羽の矢が立ち、指示を受けたのだった。相馬オーナーは経験の浅いスタッフを抱え、何とかハードに見合うだけのサービスを維持するために自らの時間や健康も顧みず力を注ぐ必要があった。毎日夜中帰りで朝は4時出勤。まさに寝る暇などないとはこのことだろう。それくらいしなければレストランのサービスを維持できなかったという。その結果、レストランのサービスは改善され、お客様からありがたいお礼の手紙をたくさん頂いたとのこと。素晴らしい。 しかし、ある日、相馬オーナーは自宅で突然倒れ意識を失い救急車で搬送されてしまった。過労だったのだろう。そして、ある病気を発症し数年間苦しむ事となる。(これが、子供の頃に交通事故に遭ったことと関係しているかもしれない、と相馬オーナーは振り返る。)それを機に、御家族の希望もあって、8年務めた会社を辞めることになったのだった。 それから約2年間奥さんが家計を支えてくれたおかげで、相馬オーナーの将来の目標であったカレー店の経営の準備にとりかかった。なぜカレー店かと言えば、それはカレーが大好きだったから。カレーが誰にも負けないくらい好きだったから。4~5才でカレーを作るほど大好きだった情熱がここにきて本格化する。経営学と飲食店経営のノウハウは既に自分の中で出来上がっていたのでそれほど心配はなかったが問題はカレーの味だった。料理は昔から趣味の一つで、どんな料理でも作る自信はあったのだが、やるからには世界一美味しいカレーを作ろうと思ったとのこと。その時点で、美味しいカレーを作る自信はあったが、それが究極に美味しいカレーかと言えばその目標からは程遠かったそうだ。おそらくこのあたりは、名人とか、超人とかの域ではないかと推測される。かつて碁(囲碁)で頂点を極めた、かなり強い人がいて、その人にもう敵はありませんね、的なインタビューをした人がいて、(その質問もどうかと思うが・・・)その格段に強い棋士はこう(いう内容のことを)答えた。「いやまだまだ全然です。碁の神様の足元にも及びません。そういうことがやっとわかったかどうか、というくらい、碁の奥は深く広いのです。」常人が到達できないような域に到達しても、尚、上があるという。まさに、相馬オーナーの心境はそういうものだったろう。毎日毎日、カレーを作り試行錯誤したが、納得できるものはできなかった。オープンは2年後の5月と決めていたので、日にちだけが過ぎ、次第に焦り始めていた。もう無理かもしれないと思う事もあったそうで、好きなものだからこそ、こだわり、理想を求めて苦悩している様子がうかがえる。 と、そんな時、相馬オーナーはある本と運命的な出会いをしたのだ。それは札幌にカレーの食べ歩きをしに行ったときのこと。地下の本屋に寄って立ち読みをしていた時、ある本を棚から落としてしまったのだ。それはカレーの本だった。まさに運命と言うべきか。その本は、後の我が師匠と相馬オーナーが言う、カレー研究家の小野員裕氏の著書「週末はカレー日和」という本だったのだ。その本を拾い上げそのまま読んだ時、自分の中にあるカレーに対する情熱と同じものを感じたという。究極に美味いカレーを追及したいという思いだ。 さて、ここから情熱の男・相馬オーナーの本領発揮!日頃抱いていたカレーに対する疑問の数々を小野さんへの手紙に書きつづったのだった。そして、なんと、もう返事を待っていられず、アポイントメントも取らずに小野さんのいる東京へ飛び立ったのだった。冷静に考えたら無謀で強引だったと。「私はカレーに対する情熱が抑えられなかったのです。」 当時、小野さんは有名な某出版社に勤めてらした。その出版社のビルに向かった。ビルを見つけて中に入り、とりあえずエレベーターに乗ろうとした、その瞬間にエレベーターの扉を開いた。エレベーターには一人の男性が乗っていた。その男性にすかさず「あ、あの・・すいません!ここに小野員裕さんって方いらっしゃいますか?」と聞いた。すると男性はエッ?という顔で「私が小野ですが。」と言うではないか。何と100人以上も社員がいるビルで最初に会った方が小野員裕さんその人だったのだ。名前を告げると、小野さんは「あー手紙を頂いた、相馬さん!」とビックリした様子。唐突ではあったが何か不思議な縁を感じた。小野さんは喫茶店に休憩に行こうとしていたようで、一緒に行こうと誘ってくれたのだった。そして、相馬オーナーは小野さんにまるで子供のようにカレーの疑問をぶつけてみた。小野さんは一つ一つ丁寧にその疑問に対して答えてくれた。小一時間談話した後、小野さんは「期待してるよ、オープン楽しみにしてるから頑張ってね」と握手をして下さったそうだ。長年かかえていた疑問に多くの答えを見つけ、一筋の光を見つけ東京を後にした。 その後、本場のカレーと文化、その雰囲気を知るためにインドを北はデリーから南はマドラスまで旅をして、近い将来に自分が持つお店のイメージを膨らませたのだった。2月のインドは暑かったが、雰囲気を知りたかった。カレーを食したかった。イメージを膨らませるためにも大切な旅だった。夢のためとはいえ、インド旅行は過酷さが予想されたので行く前にかなりトレーニングしたとのこと。旅行に行くのにトレーニングっていうのは一般には思いつかないことだ。予想通りハードな旅行で、歩くことが多く、旅行中に5kgも痩せた。現地では、あまりの軽装の為「これできたの!!?」「無謀な日本人だ!」と言われた。日本人はお金を持っていると思っている人が圧倒的で、あの手この手でぼったくろうとしてくる。そのため、疑心暗鬼になり、本当に困っていそうな人がいて助けてあげたくても心を鬼にしなければならなかった。(みんなを助けようとすると、お金がいくらあっても足りなくなるから。)優しさやお人好しは日本に置いて来るべきだと思ったくらいだ。インド人の運転で車に乗った時、日本では考えられない交通マナーで、生きた心地がしなかった。あちこちで道路外にクルマやトラックが転がっているのにもカルチャーショックを受けた。 カレーはかなり食べ歩いたが、正直本当に美味しいと思えるカレーに出会う事はなかった。日本人とインド人の舌が違うという事もあるだろうし、日本のカレーの美味しさのレベルはもうインド人の作るカレーを遥かに凌いでいると感じた。インドの料理人とも色々会ったが美味しいお店はやはり熟練した方が作っていた。美味しくないところは小学生くらいの子供が作ってる店もあった。(笑)インドも広く、北と南じゃカレーの味に大きな違いがあって面白かった。北の方がスパイシーで南の方が優しい味のカレーという印象だった。北ではマトンのカレー、南ではミールスなどが美味しかった。個人的には南インドが好きで、カレーリーフのイメージも南インドで感じた雰囲気の影響が大きいという。 有名な話の一つだが、飲水。水は気をつけていたがミネラルウォーターだと言って買った水がインド人の飲料水だったらしく一口飲んだだけでお腹がひどい事になってしまった。日本人の免疫力の貧弱さを痛感。インドではお店に飾る置物や壺、おみやげ、スパイスなどかなりの量だった。買ったおみやげもかなりの量になり、ぜーんぶ自分で抱えて帰国した。すると、あまりに多い手荷物に出迎えた家族が唖然としていた。まだ若かったですね、と笑う相馬オーナー。 オープン間近になり、六花亭の社長さんに会社の集まりに招いて頂いたり、会社まで行きカレーの試作を食べて頂いた事もあった。六花亭の社長さんは奥さんがカレー屋オープンと同時に退社する事を非常に残念に思っていたようだ。賞を取るくらいの素晴らしい社員(職員)が辞めるのはやはり残念に違いない。六花亭の社長さんは厳しくお世辞を言わない方なんだそうだ。相馬オーナーのカレーには一定の評価はしてくれたが、「お店は2カ月で潰れる」と言われた。それはインデアンという存在があるからだ。しかし、その言葉に対して心の変動や動揺はなかったとのこと。帯広でカレー店をやるという時、多くの人がインデアンを意識する。しかし、そんな気持ちは微塵もなかった。それはそれまでサービス業一筋でやってきて自分なりの信念ができあがっていたからなのだ。それは自分としてのカラーを出し、本当にお客さんに満足して頂けるものを提供できるならばそんな心配など無用なのだ。インデアンカレーを食べたい人はインデアンに食べに行く。カレーリーフのカレーを食べたい人はカレーリーフに行く。ただそれだけのこと。「違う個性のものを比べたり比較する事には何の意味もない思います。」と、まさに仏太も同様に考えていることが相馬オーナーの口から出てきた。 そして、1998年5月オープンの日を迎える。はたして自分にとって最高と思えるカレーは出来たのか。答えはノーだった。自分なりにベストを尽くしたので悔いはなかったが、正直まるで自信はなかったと振り返る。オープンだからお客さんが沢山来るのは当たり前。問題はお客さんの反応。すると、お皿が次々と舐めるように綺麗になっていくではないか。お客さんが帰って行くときに、正直信じられない気持ちで一杯だった。まずは、何とかお店として無事にオープン出来た事に対する安堵が湧いてきたが、これからこれで生きてゆくというプレッシャーが交錯していた。 それからは毎日が戦いで必死だったという。タマネギを炒める木ベラが突然ボッキリ折れた事があった。よく見るとヘラの部分がほとんどすり減って無くなっていたのだ。それくらい必死だった。今日よりも明日、明日よりも明後日はもっと美味しいカレーを作るぞという思いでやってきた。いつかは世界一うまい究極のカレーを作るんだという目標は今も昔も変わらないという。 オープンして3ヶ月過ぎた頃、奥さんにとっての試練が訪れる事になる。札幌に住むお母さんが急死してしまったのだ。亡くなる少し前、相馬オーナーは電話で話をしたそうだ。お店の繁盛を伝えると本当に心から喜んでくれ祝福してくれた。それから間もなくのことだった。奥さんはお客さんの前で笑顔を出すことができなくなってしまった。時には苛立ちからお客さんに冷たくあたってしまうこともあった。奥さんの気持ちは痛いほどわかっていたが仕事となると厳しい言葉をかけなければならないこともあった。ケンカもした。きっと「カレー屋なんかやったから死に目にも会えなかった」と恨んだ事もあったかもしれない。しかし、奥さんは立ち直ったのだ、大切な人の死を乗り越え一回りも二回りも大きくなって成長した。彼女にとっては間違いなく生まれてから最大の試練だったはず、と当時を振り返る。今でもケンカすることもあるし、お互い呆れる事もあるそうだが、「でも、今でも妻を選んでよかったと思います。」彼女には自分にはない偉大な一面がある。自分にできない、尊敬する部分がたくさんある。これからもお互いの足りないところをお互い支えながら生きていきたいと思う。素敵な夫婦愛もあり、見習うべきところが多いなあと、インタビューしながら自分が恥ずかしくなってきた。 レストランのサービスには自分なりの理念があるが、多くは奥さんに任せているという。彼女なりに六花亭の第一線で活躍してきたプライドと信念があるのだから、全面的に信頼してやってもらっている。相馬オーナーはそのぶん、厨房で集中して仕事をさせてもらっていると。「私はサービス上がりの人間ですからホールを気にすると気になりすぎて調理に集中できなくなるんです。だからホールにはめったに顔を出さないのです。」なるほど、それでほとんどお顔を拝見したことがなかったのだな、と改めて思う次第だ。 お蔭様でお客さんにもそれなりに支持して頂けるようになったと顔がほころぶ。師匠である小野さんにも認めて頂き、マイベストカレーとして通販生活での通販のお話も頂いた。嬉しい事に東京カレー番長の水野仁輔さんにも北海道一美味しいと言って頂いた。また、dancyuなどに良く出てらっしゃるカレー通で知られるイラストレーターの安西水丸さんにも非常に気に入って頂き、毎年お店に寄ってくださっているそうだ。ある日、安西さんのお知り合いで、食通でありカレー通でもある作家の嵐山光三郎先生がお越しになった。とても厳しそうな方で「まずかったら承知しねえぞ」ばりな感じで緊張したが、最後に笑顔で「いや~旨かった、びっくりした。カレーの講演に来たのに返り討ちにあったよ」と言って頂いた。 その他、遠くから毎週毎週来てくれるお客さんや、一週間に3回も4回も食べに来てくれるお客さん、道外から毎年必ずうちのカレーが食べたくて北海道に旅行に来てくれるお客さんなど、数多くのファンが根付いている。「私は本当に幸せものだと思います。お客さんには感謝という言葉では足りないくらい感謝しています。」素直に率直に気持ちが伝わる情熱溢れる相馬オーナーの話が続く。「仏太さんや他のブロガーの方々にもとても感謝しています。私のつくるカレーやお店にはお客さんに喜んでもらう為の狙いがいくつもあるのですが、ブロガーの方々がその狙いに気づいてくださり、余すところなく伝えてくれる事がとてもありがたく、嬉しいんです。」(著者註:お褒めいただき恥ずかしいので個人的には「仏太さんや」の部分は割愛するつもりだったが、相馬オーナーが是非この言葉は載せて、ということで、書かせていただいた。) でも、まだ自分のカレーには満足できていないと言う。自分の作るカレーが最高だなんて思った事は一度もないそうだ。たぶん自分のカレーを旨いなんて思ったらそれで進化は終わりだと思う、とあくまで謙虚。「いやむしろ退化のはじまりなのかもしれません。」とまで。そのくらい進取の心に溢れて、カレー愛が止まないのだろう。 ある日、名古屋のCBCテレビのノブナガという番組が取材に来た。小泉エリちゃんという人気のタレントさんが街角で誰かに昨日食べたものを聞き同じものを食べに行き名古屋の名物が揃うまで旅をするという企画の番組だった。一番遠くから来る常連さん(道外から毎年カレーリーフのカレー食べることを一番の目的に来てくださっているそうだ)が他の町で取材をうけ、なんとカレーリーフを紹介してくれたのだ。ちなみにその模様はDVDでレンタルでき、見ることができるそうだ。(仏太はまだ未確認)それから名古屋をはじめ、全国から来てくださるお客さんがたくさん増えた。全国区の人気修行場となったのは嬉しく素晴らしいことだ。 「話は遡りますが自分に過去、サラリーマンとして自分の悩みもありました。」と語る相馬オーナー。それはになかなか出世させてもらえなかった事。重要な仕事を多く任されレストラン部門も一人で支えてきた自負もあったが同期がどんどん出世する中、自分だけが取り残された感じだったそうだ。上司におべっかを使ったり、人を蹴落とすという事ができなかったのもあるが、上の人間とのサービス業への考え方に開きがあり、それが上の人間に好かれない原因だったと分析する。会社は売上の事しか頭にないように見えたが、相馬オーナーには、目先の売り上げよりもお客さんが喜んでくれる事、幸せな気持ちでいい思い出を作って帰って頂く事、それが会社の為でもあり、その結果として売り上げが付いてくるものだという信念があった。それは経営学を学んでいた時、教授の先生方から教わった事でもあった。しかし、取り残される自分に焦りや劣等感が無かったと言えば嘘になる、と当時を振り返る。「でも、自分の信念を曲げずやってきました。だから、出世は遅咲きでした。」御自分で商売を始めるようになって、それが間違いでなかった事がわかったそうだ。「今は自分の信念を持ち続けてきてよかったと思います。大切なのは人の評価ではなく自分がどうか、自分がどう思うかで、たとえそれが人に認められずとも自分が正しいと思う事に正直に生きていくべきだと思います。それが.間違いだったら修正すればいい、大切な事は自分の信念を大切にする事ではないでしょうか。」 サラリーマン時代は本当に大変だったし、辛いこともあった。しかし、今は感謝している。その時の経験がなかったらカレーリーフはやれなかったと思う。色々な側面で苦労した事が自分を成長させてくれたし、若いうちから重大な責任のある仕事をまかされ、数多くの色々な経験ができた。それと多くの外国人シェフや日本人シェフ達と仕事ができたことは本当に恵まれていたと思う。色々な知識や技術を学ぶことができたからだ。現在、帯広の飲食店の第一線で活躍しているオーナーで、かつて一緒に働いていた人が数人いるそうだ。みんな若い頃から才能豊かな人達ばかりだった。今の若い人は給料が安いからとか、自分のやりたい仕事じゃないからとか、会社で嫌なことがあったからとすぐに会社を辞めてしまう人が多い気がする。でも、若い頃はそんなことよりも何でもどんなことでも経験をする事が大切だと主張する。一見、自分の夢とは関係のないような仕事でも、それが必ず役に立つ時がくる。色々な経験が多ければ多いほど将来、適職についたときにバイタリティーを発揮でき、何か困難な壁にぶつかったときに必ず力になってくれる。お金は使ってしまえば無くなるけど、経験は一生の宝。それこそが真の財産なのだ。当たり前のようなことでも、相馬オーナーは経験に裏打ちされた確固たる信念の元、そのように話される。貴重な経験談だ。 相馬オーナーはカレー屋として心がけていること。それはお客さんをどうやって呼ぼう、増やそうということよりも、来てくださったお客さんにどうやったら満足して帰って頂けるか、どうやったら笑顔で帰って頂けるかを最優先に考えているとのこと。お客さんの満足度を追及していくことがカレー屋としての仕事だと思っているそうだ。 料理人として心がけていること。それは食材の良さ、美味しさを引き出すこと。ただ火を通せば良いのではなくその食材が一番美味しく食べられる調理法で、そして一番美味しく食べられるタイミングを逃さないことに神経を使っている。カレーは勿論だがお米もチキンもそれぞれの野菜もその一つ一つが主人公のつもりで調理している。だから、テイクアウトはしない。売り上げのことを考えれば効率的なお持ち帰りは有効だが、相馬オーナーにとって儲けることは二の次なのだ。美味しさの半減したカレーを味わってほしくないから。それがオープン以来の拘りなんだそうだ。それでも、お持ち帰りを、という要望が非常に多いのも事実でこの先メニューを限定してやる事もあるかもしれないと言う。 美味しいカレーを追及するために心がけていること。料理は舌だけで味わうものではない。例えば”香り”。カレーが運ばれて来た時に立ち上る食欲をそそる香りも大切だし、スプーンで口に運んだ時の口の中から鼻に抜ける香りが非常に大切でそれがカレーの味に大きく影響する。人間は香りでも見た目でも味を判断するのだ。例えば、いろいろな味のソーダ水があるけれど、無果汁のソーダ水は色と香料だけで味を表現している。紫色に着色したグレープフレーバーを付けたソーダ水を飲むと不思議とグレープ味に感じてしまう。脳がそう錯覚してしまうのだ。試しに色々なソーダ水を、目隠しをして、鼻をつまんで口に運んでみよう。きっと何の味のソーダ水かわからないだろう。それくらい見た目と香りは大事なものなのだ。だから、味だけでなく見た目の美しさや香り、店の雰囲気、厨房から聞こえるジュワーっという音などすべてが美味しさの一部。トータルとしてカレーの美味しさが決まる。それが相馬オーナーの信念なのだ。色々なものをカレーに入れるのがあまり好きではないそうで、それは折角のバランスが崩れてしまうことがあるからだ。それよりも基本となる味を追求していくこと考えている。商売としては色々なメニューを考え、飽きさせないことも重要だが、美味しさを極限まで追求し飽きさせないというやり方に重きを置いている。だから、実はオープンしてからカレーの味や作り方は一定ではなく、意外に変わっているのだという。ただし、その時の味が大好きで食べに来てくれているお客さんもいるわけだから、大きくは変えてない。少しずつ少しずつお客さんに気付かれないように改良していく。でもたまにバレる時がある。それは長く通ってくれていた常連さんが転勤などで帯広を離れ、何年かぶりに食べに来てくれた時などだ。それでも、その改良は受け入れられ、相変わらず美味しいという嬉しい気持ちにさせてくれるのだ。 波瀾万丈ともいえる人生の中で、思った希望を努力で叶えていく相馬オーナー。当初はお子さんがいなかった。それは自営業を夫婦でやっているから子供を育てる余裕などないと諦めていたからでもある。奥さんの友達の中に、生まれつき精神的な障害をもつお子さんをかかえる人がいる。切磋琢磨しながら強く生きる親子に本当の親子の愛情を垣間見たのかもしれない。その親子の愛情が奥さんに、そして、相馬オーナーにも子供がほしいという思いを芽生えさせたのだ。ただでさえ忙しいお店のことを考えるだけでも、特に奥さんにとって、私生活の過酷さは想像を絶するものといっても過言ではなかった。しかし、もし、その親子がいなければ今頃子供は存在しなかっただろう、と振り返る。どんな親も子供のことでそれぞれに苦労するものだが、その苦労に勇気を与えてくれるのが、その友達の存在なんです。より過酷な境遇の中で頑張る友達は相馬オーナー夫妻にとって大きな支えとなっている。とはいえ、もともと人を雇う前提でメニューの値段設定をしていないため、なかなか人は使えない。人件費をかけないようにし、質の良い食材を使いつつも比較的リーズナブルな値段で提供できるようにしている。だから、何でも自分たちでやらなければならないし、風邪一つひいている暇もないから大変ではあった。もうやるしかない。なるようになる。という気持ちだった。そんな時、周囲の人達が助けてくれた。お店が忙しかったため、責任感の強い奥さんはお腹が大きくなっても働いていた。何と子供が生まれる前日まで。多分、動き過ぎていたからだと思います、と相馬オーナーは当時を振り返る。なんと奥さんはまだ予定日より2ヶ月も早いのに出血してしまい病院に向かったのだ。相馬オーナーも仕事が終わってすぐ病院へ急行した。すると、奥さんは点滴治療を受けていた。赤ちゃんはかなりおりて来ていて時期がまだ早いので、なるべくお腹の中で成長させる為に、薬の点滴で抑えていたのだ。お腹の痛みに必死に耐える奥さん。そして、看護婦さん(註:当時は看護婦、現在は看護師という)が様子を見にきた時に一瞬、青ざめて「もう、限界です!」と先生を呼びに行った。後になって、ある人から「あなたがた家族は共にこの世で落ち合う事を約束して生まれてきたんですよ。」と言われた事があるそうだが、御夫婦にはこの世に生をうけるお子さんの「俺はもう、待ってられない!早くお母さんとお父さんの元に生まれたいんだ!」という叫びが聞こえた気がした。お子さんは出生時体重が小さく生まれましたが、人一倍、泣き声が大きな赤ちゃんで看護婦さんの間で有名だったのだそうだ。相馬オーナーもNICUに向かう時に自分の息子が泣いていると、必ずわかるほどだったそうだ。もともとお店のカウンターには今のような壁がなかったが、出産後、壁を作り裏にベビーベッドを置いて子育てしながらお店の営業をした。時には大泣きする事や厨房の暑さやタバコの煙に悩んだりもした。首がすわってからは厨房にベビーカーを持ち込み揺らしながら仕事をしたそうだ。「大変だったけれど何とか元気に育ってくれました。」と嬉しそうな笑顔で話す相馬オーナーの苦労は、話の中だけでは済まないということは想像に難くない。 「私が師匠と仰ぐ小野員裕さんはおそらく日本で一番カレーとはどういうものかを知っている人だと思います。」小野さんの凄いところはただ食べ歩いて批評するだけのカレー通ではなく、自らカレーの職人をも凌駕するカレーを作れてしまうところだと、カレーに限らず、一度その料理を口にすれば頭の中でレシピができ上がってしまうほどで、料理に対する執念と洞察力は素晴らしい。尊敬。小野さんが監修した「鳥肌の立つキーマカレー」は絶品、と相馬オーナーは大好きで、いつもダンボールで買って食べるそうだ。あの値段であのシンプルな食材であそこまでの味を表現できる人は他にいないと思っているそうだ。「おそらく私は日本で一番小野さんのカレーを消費している人間だと思います。」と胸を張る。小野さんとの出会いがなければ今のカレーは作れなかったし、商売もうまくいかなかったかもしれない。小野さんからは色々な事を学んだし、仕事を辞めたくなった時も相談にのってくれた恩人だそうで、かなり深い関係だということがうかがえる。流石、師匠と崇める人だ。いつかは、小野さんが最高だと謳う今は無き伝説のカレー店「モーティーマハール」を超えたいと思っているそうだ。 10年前から毎日、お昼休みに5kmのランニングをしている。それは夏場の繁忙期を乗り越える体力をつけるためだ。夏場は観光客や管外、道外のお客さんが増え忙しくなる。また厨房は40℃を超える。どんなに忙しくなっても頼れるのは最後は自分一人。ウェイトトレーニングもして厨房で機敏に動けるよう心掛けている。また、心技体が充実していなければ美味しいカレーは作れないと思っているので健康のためでもある。料理にはその時の感情や心情が味に表れるものだからだ。体調を崩すと味覚が鈍るので風邪などには十分注意している。酒やたばこも舌の感覚を麻痺させ老化させるので口にしない。それとライフワークの為でもある。自らが健康でなくては人に健康でいられる秘訣をとく資格などないから。 ある時期に目標を失うこととなる。テレビで北朝鮮の現状を伝えるドキュメントを見た。そこには食べ物が無く、まるで荒野の野生動物のように雑草や木の根を食べる一般市民。市場の地面のドロの中から生米を一粒一粒拾い口に運ぶ子供がいた。一方、世界のどこかでは贅沢のかぎりを尽くしながら、その財力を一円たりとも人の為に役立てようとしない者もいる。自分が作る料理の追及に、はたして意味があるのか自問自答するようになったのだ。そんな贅沢を追及してどうなるのか、世の中には今この時の最低限体を維持する食べ物さえも恵まれない人がいる。そんな時、あるお客さんがその答えをくれたのだった。 「ここのカレーは優しい味がするんです。食べると心が癒されるんです。いつも日常に疲れた時、私に元気を与えてくれるんです。それで一度お礼を言いたかったんです。」 相馬オーナーはそれを聞いた時、目が覚めた思いだった。そうか、カレーで人の心を癒すことが可能なんだ。それ以来、自分の心を味で表現するつもりで以前よりも一皿一皿、精いっぱいの思いやりを込めて作るようになった。今も世界一美味しいカレーを作る目標は変わらないが、お客さんのために、お客さんを喜ばすために、お客さんを笑顔にすることが与えられた仕事なのだという思いの方が強くなった。ここで留まらないのが、情熱の人・相馬オーナーの凄いところ。そして、5年前から売り上げの数%を毎月、ユニセフに年間契約で寄付するようにしたのだ。そうすれば自分の作るカレーが少しでも恵まれない人の為になれると思ったからだという。思ってもなかなかそれを形あるものに実行するのは難しい。それをこともなげにやってのける相馬オーナーはやはり凄いと思う。 また同じ頃、色々な悩みを抱える人の相談にのるボランティアを始めた。その悩みは様々だが、特に色々な精神疾患に苦しむ人の相談に多くかかわっている。相馬オーナーは、それは今の時代、そういう人が非常に多く自然の流れでそうなったと考えている。メールや手紙でやり取りをしたり、定休日にお店に招いて相談にのることもある。十勝管内だけでなく全国に相談者がいる。相馬オーナー自身、サラリーマン晩年に発病した病気にお店を始めてからも苦しんだ経験があって、薬を一生飲まなければならないと医師から告げられた。しかし、あえて薬を止め、病気を治す為の自分なりの理念にかけてみた。本当は薬を飲まない事は非常に危険な事なのだが、その理念を自分の体で証明し、多くの病気に苦しむ人達に希望や勇気を持ってもらいたいと思ったからだ。そして、何年か苦しんだ病気を克服した。もう10年以上発症していないそうだ。その経験を元に病気をもつ人にアドバイスをすることも活動の一つ。あえて証明の為、薬を止めたが本来はすべき事ではない。なので、相談者にはきちんと病院(主治医)の指示のもと治療をするように伝える。その上で自然治癒力を高める為のメンタル的なアドバイスをしている。今はまだその方向性が定まっておらず、お店の忙しさとの兼ね合いもあり色々悩んでいるところ。なぜ、こんな事を始めたのか。それは生きがいある人生を歩みたかったから。カレーも悩み事相談も相馬オーナーにとっては生き甲斐であり、ライフワークだ。人のためになりたいという純粋な気持ちから来ている。本当に見習うべきことが多い。(相馬オーナーのブログ「心と体のボランティア」も参照。) 以前、横浜カレーミュージアムの出店のお話を頂いた事があった。また、札幌スープカレー横丁やばんえいのお話も頂いた事もあった。もし、商売で手を広げ仮に大成したとして金持ちになったとする。いい家に住んで、高級車に乗って、贅沢なものばかり食べて、その時は嬉しいかもしれない。しかし、そこには真の生き甲斐のある人生は味わえないと思う。きっと虚しさが残るだけだと思う。真の生き甲斐のある人生を歩むには、どうしたらよいか。相馬オーナーが導き出した答えは、自分を人の為に役立てる事。苦しんでいる人、悩んでいる人、絶望の中にいる人、暗いトンネルの中から抜け出せない人の力になり、生き甲斐ある人生が送れるようにしてあげたい。自分の関わった人が病気を克服したり、元気に前向きな人生を歩めるようになった時の感動と喜びはどんな経験よりも自分に生き甲斐と幸せをもたらしてくれた。生まれてから色々な事で苦しみ、悲しみ、葛藤、劣等感、病気、事故、失敗を経験し、そして、幸せな人生を歩む事が出来るようになった相馬オーナーは、自分のその経験を生かしたいのだ。他の人達にも幸せになってもらいたいのだ。思っていても中々それを実行できなかったり、恥ずかしくて口にできなかったりするところだが、相馬オーナーは考えがしっかりとしていて、なおかつ有言実行のタイプ。今後も生き甲斐、目標に向かって邁進することだろう。 相馬オーナーの目標は これからも世界一美味しいカレーを追及していくこと 一人でも多くのお客さんを喜ばせ、感動させ、心を癒し、そして笑顔にすること 一人でも多く、世の中の様々な悩みを抱えた人のために力になること それは志すかぎり、決して到達することのない永遠に続く目標なのです。 と、引き締まったお顔だったが、到達しそうで奥の深さに到達できず、どこが終着点かわからないような目標であることに、ぶれずにしっかりと御自分と周りを見据えている表情がうかがえた。その情熱できっと目標は達成されるだろう。そして、次々と新たな素敵な目標に向かっていくのだろう。 世界一を追求する相馬オーナーのカレーは今後も人々を魅了し続ける。 |
修行場データ カレーリーフ 帯広市西17条南5丁目8-103-101オーロラ175 1F 0155-41-0050 11:30-14:30, 17:00-20:30 (LO30分前) 水曜、木曜定休 (修行場・十勝「カレーリーフ」参照。) |
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